四章 かたちなきもの
一節 じぶんなるもの
※続き物の7話目。
黒い位牌が八つ並ぶまでに、二つの肉体を焼き、六つの瓶の封をあけて脹相は一人になった。白と黒の戦闘装束──血と泥にまみれて一度も洗ったことのなかった、土臭いあの日の服は衣紋掛けごとカーテンレールから外す。
カーテンを開けると、秋の陽光でさえ目に痛む。
「……皮肉なものだな……」
弟たちを全員、荼毘に付したことでようやく、この部屋の時間が動きだしたのを感じた。満ちた、とはまだ言えない。伏黒や虎杖の部屋のように、とはいかずとも、ここが自分の居場所になりつつあることが、いやではなくなっていた。他のどこにも行けないから、ではない。ここでなら、安眠できるのだ。自分も、そして──この手で殺めた弟たちも。
虎杖悠仁はそんな言い方するなと言ってくれたが、自分はやはり、『殺した』実感がある。ずっと感じてきた八人の弟たちの気配が今は、辿れなくなっている。消えてしまった。消してしまった、あの子たちが帰る先のかたちも、あの子たち自身の灯火も。あの子たちはまだ消えなくてもよかったのに、俺が、俺の考えで、あの子たちの息の根を止めた。
それはやはり『殺人』だと、脹相は思った。
「……思いたかった、と言うべきかもしれんが……」
自分は弟たちを殺した。忌庫から出した六人分の封印を、解いたうえで火葬したときは、虎杖だけでなく伏黒、釘崎も付き合ってくれた。ボードゲームをしながら、手にはずっと羊水に揺蕩う膿爛相たちの愛しい重みが残っていた。
ベッドを振り返る。
あの日の戦闘装束は近いうちに燃やすつもりだった。火葬場を使いたかったが、あそこは弔いの火を必要とする遺体のための場所だ。この衣服もある意味では弔い、死別に近しいものかもしれないが、さすがにそんな感傷に術師たちを付き合わせるわけにはいかない。
焚き火でもしよう。さつまいもはアルミ箔で包んで焼くと美味いと聞いた。ひとつひとつ、自分の手で手放していく必要があった。死別とは、そういうものだと学んでいた。
◆◆◆
愛していた。なによりも。
これから先、自分は墓守のように生きていくのだろうか。
ふ、と笑ってしまう。ふ、ふふ、と笑いはこぼれた。
そんな湿っぽく生きることができるのなら、こんなに胸が重くはならないだろう。罪悪感や後悔に人生を費やすことができるならとっくに自分は潰れていた。死んでいたとさえ。
窓の外から、近隣の生活音が聞こえてくる。
残念ながら自分は潰れなかった。
「いい朝だ……」
愛している。今も、なによりも。
それでいいと、やっと思えたのだ。
◆◆◆
術衣に着替えていると、カーテン越しに話しかけられた。
「そのまま聞いてくれ」
「ああ。……?」
薄いカーテンの向こうで、家入はぽつぽつと語る。
「正式に呪術高専と縛りを結び、永遠の隷属を誓った今なら開示できる情報がいくつかある。おまえも知っておくべきだと私は思う──いや、違うな。……おまえにこの事実を伏せたまま今後もおまえと相対していくだけの恥さらしに耐えられないから、私の話に付き合ってほしい。いいか? 脹相」
なにを今更、と思いながらカーテンを開ける。
「わかった。解剖しながらのおしゃべりか?」
「いいや。おしゃべりのあとでゆっくりと解剖だ」
「わかった。話せ」
「ああ、話すとも。こころして聞け」
「わかった。聞く」
家入硝子は「社会とおまえたちの仕組みについて」と前置きして語った。検査および調査の結果、脹相だけでなく壊相、血塗から焼相に至るまで、血や体液に毒性が含まれていること。その毒は現代医療でも呪術界でも科学分野においても未だ解析不能な成分で構成されていたこと。
その毒性を解明できない限り、呪胎九相図の面々は人間として扱われることはないだろうことが、わかった──
「呪物として生きろ……という話ではなさそうだな?」
「そんな安直でおさまる話なら、こんな時間は設けないよ」
「つまりは?」
試験官に入った血液──脹相から採取した血液──をチャポンと揺らす。
「血清作りを急ぎたい。呪胎九相図を危険視する根拠である毒性や分解反応を解除、あるいは緩和できるもの……解毒剤があれば、呪胎九相図は脅威ではなくなる。対策が可能な毒は交渉材料程度の効力しか望めないからな」
「致死性の毒物としてはもう扱えなくなる、ということか」
「そうだ。半呪霊の特異性もほぼ消える。呪胎九相図というだけで有利だった成分が、無効化できることだからな。それが適えば──」
「無力な受肉体……人間と扱うことも夢ではなくなる、か?」
家入が、力強く頷く。
「この試験官。何故、おまえの血液を容れているのに爛れることもなくそのままでいられると思う? 新田新だ。あいつの術式で、試験官の状態をまず固定した。次いで、脹相の血を注いだんだ。おまえの血は、かたちある肉体を侵蝕、破壊することはできても術式を破ることまではできないことがわかった。おまえ、本気で新田の弟には感謝しろよ」
「ああ。そうする」
「……脹相。おまえの肉体は、人体だ。術式を帯びた血液が全身を巡っているから多少無理の利く頑丈さがあるだけの、凡人と云って差し支えない。毒だ。毒の問題さえ解消できれば、おまえはただの術師になれる」
「…………」
家入が、椅子から腰を上げた。脹相も、彼女を見上げる。
「そう近い未来とは、言い難い。しかし、我々呪術界と脹相自身が諦めなければ、かならずや人間として扱われる。だから、脹相。人間を殺すな。人間と敵対してはいけない。自分は無害だと、証明し続けろ」
「……人間は、受肉体であり半呪霊でもある俺を、信じるか?」
「疑わせる隙を見せるなと言っている。信じる信じないは、相手の頭のなかのことだ、こちらでは操作できない。だから、私もおまえも行動し続けるしかないんだよ。おまえは人間についた。人間として生きていくことを弟たちに誓った。なら、人間のなかで生きろ。……おまえも人間なのだから」
観念して、立ち上がる。
家入が差し出した手に、苦笑しつつも握手を返した。
「検討する。付き合ってくれ、家入」
「おまえこそ、途中で音をあげてくれるなよ?」
「そのときは喝を入れてくれ」
「甘えるな」
「厳しいな、家入は」
握手した手を、一度強く握られ、解かれた。
脹相も、正面から家入硝子という人間を、見つめる。
「よろしく頼む」
「こちらこそ」
◆◆◆
夜。大浴場から戻った虎杖と伏黒を、脹相が待っていた。
「朝風呂派にもどることにした」
「どうして朝風呂派にもどるのか、理由訊かない方がいい?」
「そうしてくれるとありがたい」
伏黒と、顔を見合わせる。アイコンタクトで、互いの意見が一致していることを確認できた。
「じゃあ、ごめん。ちょっと踏み込ませて。──どうして、朝風呂派にもどるん?」
脹相が、片眉をひょいと上げてもう片眉は顰めさせる。器用なものだ。前々からうっすら感じていたが、この男、表情筋を動かすのを怠けがちなくせに、目元の表情はやたらと豊かにできている。
「訊かないでほしいんだが」
「だから、うん。そこはごめん」
「謝られても困る」
「理由、知りたい。めっちゃ気になる。訊かないでほしいほどの事情ができたんだろ? なに? どんなよ」
「…………適当に答えていいか」
「うそはやめてくんない?」
「む」
ならどうしたら、と言わんばかりの脹相に、こいつ誤魔化すの下手すぎるなと思った。伏黒が、ゆっくりくちを開く。
「……話してほしいのは本当だけど、本気で話したくないなら、いやだからと断ってくれ。……アンタのことが心配だ」
「おまえたちの『心配』に付き合う義理は無い……とは、さすがに言えんな」
「義理だの義務だのは、いーよ」
「よくない。義理はともかく、義務なら果たすべきだ」
「アタマ堅い?」
「頭突きでためしてみるか?」
「ふたりとも、あんま仲良くしないでもらえるか」
くだらない話が続きそうになると、伏黒が割って入った。
「さびしんぼか、伏黒」
「脹相さんやめてください」
「敬語とさん付けは要らん」
「マジでやめろ脹相。──これでいいか」
「ああ。バッチリだ」
「やめろ……やめろ……」
伏黒がうめいている。どれだけ付き合っても、一度慣れてしまった呼び方や口調はそうそう直せないのが伏黒の良いところだ。ケケ、と笑っていると膝裏をかるく蹴られた。乱暴者め。脹相も、ふ、と吐息をもらすように笑う。
「……たいした理由も事情もない。大人数で湯船に浸かるのは、当分、控えようと思っただけだ」
「それって……おまえの毒と関係ある?」
「おおいにある。虎杖はあまり顔に出ないようだったが……伏黒。おまえなら、心当たりあるんじゃないか」
「……それは……」
「伏黒……?」
表情を曇らせた伏黒に、脹相は静かにしずかに目を伏せた。
「血液だけではないんだ、俺の毒は。汗をはじめとしたあらゆる体液に、今の日本医療では解明できない毒素が含まれている。壊相や血塗の持っていた『分解』を中心とした不可避ではない。明確に『攻撃』なんだ、毒として。……俺が長湯したとき、伏黒は何度かのぼせたといって湯上りにしばらく休んでいただろう? ……明言するが、あれは俺のせいだぞ」
「わかってて俺がアンタと一緒に風呂に入りたかったんだ。勝手に責任を感じられても困る」
伏黒が強い語調で言った。
「脹相さんのせいじゃない、絶対に」
伏黒の言葉に、脹相は何も返さなかった。伏黒が強く断言すればするほど、脹相の推察が当たっていたことが揺るぎなくなる。
「おまえだけではなかった。俺が把握しているだけでも高専勤務の呪術師三名、補助監督八名、職員十二名……外部から滞在していた【窓】や派遣型呪術師も含めたら枚挙にいとまがない。死者を出さなかっただけ、マシだと思って見逃してもらっている状況だ」
「……アンタのせいじゃ、ないだろ……」
「俺の分泌した体液吸収による体調不良。立派な原因だ」
「そんなこと言ったら、脹相まじでなんもできんくない?」
「俺がそばで呼吸をし続けるだけで、微量の毒ガス分布になるんだぞ。影響と代償が釣り合っていない」
「だからって……!」
「──俺は、朝風呂派にもどらせてもらえるだけで十分だ。感謝している。日課に風呂掃除が追加されたことくらい、どうということはない。……しかし、虎杖、伏黒。おまえたちは本当に……なんというか……」
「うん?」
「……なんすか」
ふたりして顔を見合わせ、脹相に困惑顔を向ける。
脹相は脹相で、なにかまぶしいものでもながめるような眼でこちらを見ている。ふたたび伏黒と顔を見合わせる。わからん、なんなのだ?
「えーと。……『おまえたちは本当に』、なに?」
「いや。馬鹿な子ほど愛らしいというか」
「はぁ?」
「いや、違うな。それを言うなら『可愛い子には旅をさせろ』か……」
「いやいやいや?」
「脹相さん、かなり違うと思います」
「そんなことはない。合っている。可愛いし旅に出したい。が、馬鹿なやつらだなぁとも思っている」
「えっなに? マジでなに? 喧嘩? 喧嘩売ってんの?」
「買いますよ」
「俺は喧嘩は売らん。買ってもらっても困る。ふたりとも、わかったら健やかにな」
「わかんねえわかんねえわかんねえよ!?」
「全然わかりません、ちっともわかりません。面倒臭がらず、ちゃんと説明をしてください」
脹相は、くぁ、とあくびをする。
野良猫みたいに、豪快なあくびだ。
「じゃあな。俺は寝る」
「いや雑に置いていかないで!?」
「ちょっと、脹相さん」
「おまえらももう寝ろ。寝る子は育つぞ」
「いやいやいや!」
「虎杖、静かにな」
「脹相さんまじで行っちゃうんですか」
「まじで行っちゃうつもりだ。寂しがるな伏黒」
「寂しがってねえしッ!」
「こら、伏黒! しずかに!」
「おまえもかよ虎杖!?」
「おやすみ」
「おやすみ~って脹相! 行くなよ!」
「虎杖もか。そんなに寂しいなら一緒に寝るか?」
「寝るよ!」
「そうか」
「伏黒も行くよな!」
「え? あ? お、おう?」
「そうか。そうか……鍵は開けておく。歯磨きしたら来い」
「おう!」
「おう……?」
三人で寝ることになった。
脹相の部屋で。何故か。何故か。
「もうおれ歯は磨いてある! でも枕持参したい。伏黒は? 歯は磨いた?」
「ま、まだだ」
「磨いておいで!」
「お、おう。……? ……?」
ぷりぷり怒りながらも枕を取ってきて脹相の部屋に乗り込んだ。伏黒はどうしてこうなったのかわからないままの頭で歯を磨きに部屋に戻っていった。律儀な彼は、やっと頭が追いついて疑問符を浮かべてもちゃんと脹相のもとへ来るだろう。
脹相の部屋は暗かった。いくつも並んだ位牌を窓辺に、脹相はベッドのうえで丸くなって寝息を立てていた。
◆◆◆
「鯉ノ口渓谷の『八十八橋』……」
「くれぐれも無茶だけはせずよろしくッス」
「時限式の術式発動か。条件がおもしろいな」
「早速の不謹慎ッスよ!」
「おまえの口調もおもしろいぞ、新田の姉」
「弟がどうもお世話様でしたッス!」
「気にするな。生きてれば色々ある、らしい」
「あのぉ! このヒトいつもこうなんスか!? 永遠にボケとツッコミの応酬になっちゃってなんも話進まないんスけど!」
「泣くな、新田姉……色々……あると思うが……」
「ありがとうッス! もうつらいッス!」
新田新の姉はその後も何かうめいていたが、普段なら真っ先に助け船を出す伏黒恵が静かであることに、気が付いた。脹相が気づくほどだ、虎杖と釘崎も何か考えている。伏黒は気にしていない風を装っていたが、脹相たち三人と新田姉を先に帰らせたときに全員、察した。何か隠していると。
隠密行動は好んでいた。斥候代わりに脹相が先行する。月が昇ってから、伏黒が動き出した。やはり八十八橋に向かっている。これ以上の独断専行はまずい。声を掛けた。
「伏黒、伏黒」
「……えっ脹相さんどうしてここに」
「めずらしくおまえが年下に思えたからな。尾けた」
「……心配させましたか」
「いや? 心配はしていない。おまえはしっかりした頑張り屋さんだからな」
「はぁ」
「虎杖たちもすぐに来る」
「えっ……。……な、んで……」
「さあ。それこそ、伏黒を『心配』してのことではないか?」
「…………」
神妙な顔つきになった伏黒の横顔は、やはり幼く見える。めずらしいこともあるものだ。確か、年の頃は十五だか十六だかだった。少年なのだ。伏黒も虎杖も、釘崎も皆。
「いや、釘崎は少女か」
「あ? ナニよ、突然? 私の純粋さにメロったの?」
「めろってはいないと思う」
「メロりなさいよ」
「むりだと思う」
「なによ」
キィ、と歯を剥き爪を立てて威嚇してくる。釘崎野薔薇は少女ではないかもしれない。「ん、」ふと顔を向けた。
「……これが、川か?」
「なんかおかしい?」
「…………すこし、な」
川。上流から下流へと流れていく水、それが川だ。「……」だが、なんだろうか。じっと見つめる。水。確かに水だ。呪力を帯びてはいない。だが、何か。何か、線のような……そう、境界線に見える。脹相のうちがわ、月夜に呼応して目覚めようとする呪いの野蛮。化け物の眼球がこの水は『境目』だと知らせてくる。
伏黒を見る。目が合うと、伏黒は覚悟を決めたように頷いた。虎杖も釘崎も、同じ想いのようだ。よし、と皆で一歩を踏み出した。
そのラインを越える──瞬間、背筋を駆けた気色悪さに、脹相は飛び退いた。虎杖悠仁も脹相同様、川を越えかけた足を大きく転換させて側転で戦闘態勢に入った。
「脹相ッ! 今の!」
「ああ。おまえも気付いたな、虎杖」
伏黒と釘崎の姿はない。ふたりは境界線を──川の結界を越えて、呪霊の領域内部へ侵入を果たしたのだろう。ならば自分たちの任務である呪霊祓除は任せられる。
問題は、こちらだ。
何かおぞましいものが舌なめずりしている気配。ズズズ、と地を這うような音までしてくる。
「虎杖、まずは──……、……あ?」
夜目が効くのが災いした。
それの姿が見えて、脹相は瞬間、頭が真っ白になった。
「ハァイ、お久しぶり~♡」
「────ッ」
かろうじて避けた先で、掠った毛先が散るのが見えた。鋭すぎる蹴り。爪先だけでなくふくらはぎまでカマキリのような鎌に、変化させている。
「脹相ッ!」
「ンだよ、虎杖悠仁まで居ンのぉ? モッテモテじゃん」
「真人、てめえ……!」
虎杖がすぐさま攻撃に移る。脹相は防御に徹した。頭に血が上っているからといって、敵だけでなく味方陣営にまで当たるような攻撃はしない男だが、相手が相手だ。どう逆手に取ってくるか知れない。
トントントン、と身軽に跳ねて、鹿の脚力と多腕で、虎杖の放った一撃による礫を弾き返してくる。
「……貴様」
「よかったね虎杖~オトモダチできて。吉野順平よりも頑丈で、壊し甲斐あるよなぁ~呪胎九相図は! そう思うだろ? ……なんだよ、オニーチャン。猫かわいがりしてた弟たちと再会できたんだぜ? そんなカオしないで、もっと喜べよ」
う、ゔぅ、と悲しげな声をあげて、ヒトが這ってくる。
ひとりはボンテージ衣装を着た巨躯の男。
もうひとりは、若草色の肌に血の涙を流して頭を揺らし。
「オチはわかってるだろ、改造改造。急ごしらえだけどさ、ちょろっと人間を数匹、いじって遊んでみたの♡ よく出来てると思わない? 壊相チャンは四足歩行しかできないし、血塗チャンはなんか凶暴になっちゃったんだけど、けっこう似てるでしょ?」
「……何のつもりだ。今更、報復か?」
「ンなわけないでしょ、偶然偶然。おまえらもお遣いだろ?」
お遣い。なんのことだ、と虎杖に目配せしてみるが、あちらも意味は汲めない、と目配せで返される。二秒にも満たないやりとりで即、真人も「あれ? マジで偶然?」ときょとんとしてくる。「まぁいいや」ギラリと、悪意に満ちた無邪気さが、月光にきらめいた。
「遊ぼうぜ? まとめてオレのおもちゃになってくれよ!」
すべてを嘲笑う『人間』の特級呪霊──真人が、丑三つ時の八十八橋で、急襲を仕掛けてきた。
◆◆◆
虎杖は真人に対抗できるという。だが、脹相は無力だ。
真人は虎杖に触れられない、自分は真人に触れさせない。
近接を虎杖悠仁ひとりに任せ、脹相は後方援護に徹するのが定石だ。それは真人もわかっている。二匹の改造人間を、虎杖ではなく脹相のもとへと差し向けた。
「ガァウッ、あ゙ァあああ゙ッ!!」
「ぐぅ……ぅゔ、ううぅゔぅ~~っ、ギ!」
「……ッ!!」
この二匹の獣を、弟たちの名で呼んではならない。絶対、絶対にあのふたりを哀れな獣たちに重ねてはいけなかった。奥歯を噛みしめ、無数につくった百斂を数滴放っては防御に使う。複数体分を詰めたとはいえ、所詮は改造人間だ。脹相の敵ではない。
「ギッ!」
「ぎゃあうッ」
「……チッ」
──それでも、弟たちの姿をしたものがもがく姿が見えると、声を聴いてしまうと──どうしようもなく、脳内が揺さぶられた。
「脹相!」
「──問題ない」
迷いを断ち切るべく言い切って、二匹一度に、苅祓で一刀両断にする。──はず、だった。
「ひっでえなァ、壊相も血塗も泣いちゃうぜ?」
「~~~──ッ!」
集中力が、一瞬、ぶれた。
苅祓のコントロールがうまくいかず、逃げようとした二匹を即死させるはずが、苅祓の軌道上にあった部分だけを半端に傷つけるだけに留まった。壊相は腕を──ちがう、こいつは壊相じゃない──、血塗に似たあいつは──だからそうではない、似てなどいない!──脚を、それぞれ落としただけで無用に痛みを長引かせてしまう。彼らは悲しげに痛みで喉を喘がせている。
「あぁ゙う……うゔ……」
罪悪感が湧いてくる。くそっ、と吐き捨てながらも、せめて血刃でとどめを刺してやろうと思った。が、手が震えてどうしても──どうしても、できない。痛がっている。苦しいだろう。守れなかった。ちがう! そうではない。
真人……真人だ。あの男……!
「そんなにつらいならさぁ、オニーチャン」
真人が、虎杖の技を搔い潜る動きを利用してこちらへ一気に、跳躍した。月光を背にヒトのかたちをした怪物が、舞い踊る。
「かわいそーだから。オレがつぶしてやるよォ! おまえの大事な壊相と血塗を何度でもさァ!」
咄嗟に、壊相と血塗を背に庇った。肩を咬まれる。腰に爪を立てられた。「……!」血刃を解除し、小型の苅祓を数種、投げる。
「ワオ! 手裏剣、スゴイ! ジャパニーズ・忍者じゃん!」
回転威力は弱く、刃も鋭さはない。避けられ、弾かれる。
「──俺の弟に手を出すなッ!!」
一喝し、百斂を展開、超新星で囲んだ。超新星の炸裂と同時に、自分にしがみついているふたりの弟を爆発から守るよう全身で覆いかぶさった。背に衝撃、食い込む牙と爪が正気を取り戻せと訴えてくる。
わかっている。
この二体は改造された人間、他人だ。弟じゃない。
それでも、ふたりに似せた何かをこれ以上傷つけるくらいなら、他人と知ってて殴られていた方がまだマシだ。あの子たちは死んだ。もう、痛い思いなどしなくていい。
「おまえは馬鹿だ、脹相」
「……虎杖」
真人は退いている。超新星から逃れ、虎杖が駆けつけてくれていた。うゔ、と改造人間たちは脹相の腕のなかでもがいている。振り向いた脹相の顔を、虎杖は両手でバン、と挟むように張った。
「なに、」
「そのまま『ふたりを』離さないでくれよ」
「! ──まかせろ」
暴れようとする改造人間二体を、ぎゅうっと抱きしめる。
「あ゙、」
それが最期だった。
鈍い音が耳元で鳴って、二体の改造人間は首から上だけを綺麗に粉砕されていた。血を、左右から浴びた。俺の代わりにトドメを刺してくれたのだ。礼はさすがに言えない。だが申し訳なさはやはり、感じた。即死させられた、二体。痙攣がおさまるまで抱いていてやりたかったが、感傷に浸る余裕はない。すぐに立ち上がる。
「すまん」
「いこう!」
頷く。
森から、改造人間がぞろぞろと這い出てきた。夜の森は闇そのものだ。闇の至るところから、真人の声がした。
「こりゃ、お遣いどころじゃないかもなぁ」「おもちゃの消費は早いモン勝ち。そうだろ?」「獲物も命も、賞味期限があるからな」「生きてるからこそ、美味いんだ。死んでからじゃ、絶望できない」「もったいないよな」「ほんっと、ニンゲンってもったいないことするよ……」
改造人間を一掃するには、俺の広範囲攻撃がいい。
わかっていて、虎杖が制止する。
「脹相、おれが殺る。おまえは殺すな、いいな!」
「会敵には向き不向きがある。今は俺が向いてる」
「いいから殺すなって!」
アハハ、と高い笑い声がした。低い笑い声がした。幼い笑い声がした。笑い声はすべて、森から響いた。
「くっさ。マジでやってンの、それ?」「オレを祓うんだろ?」「オレの邪魔したいんだろ?」「そいつらを楽に殺してやりたいんだろ」「くっさ」「だれが殺しても死んだ側からは同じ死だ、なんて言ってもしょうがないもんな?」「脹相は人間側についちゃったもんねえ」「虎杖もわかってる。オニーチャンはちょっとわかってない」「虎杖がヒトを殺すのと、おまえがヒトを殺すのは、全然意味が違うんだって、脹相オニーチャンは、まったくなんにもわかっちゃいない!」
四方に散った真人の気配は、枝伝いに、菌糸か蔦のように広がっている。方々で声帯と口を作って、どこにやつの本体というべき中身があるかわからない。攪乱だ。改造人間が襲い掛かってくる、声に注意しながら地を駆ける。かならず虎杖を視界の端にとらえ、なるべく距離を一定に保った。
ハハハ、ゲハハ、と不快な嘲笑はまだ続いている。
「役立たずだなァ、オニーチャン」
「俺は貴様の兄ではない」
相手にするな、と虎杖が叫ぶ。申し訳ないが、その助言には従えない。俺はこいつと『対話』しなきゃならない。
「脹相、だいぶと意識はっきりしてきたカンジ? ずいぶん長いこと、おまえ赤ちゃん頭でぼんやりしてたもんねえ。何をしてもしなくても、不思議そうでさ」
「実際意味がわからなかったからな」
「だろうね。壊相チャンのお世話になってばっかりで」
「貴様に言われずとも、自分の愚かさは知っている」
「そうか? わかってないと思うけどなァ。だっておまえ、なんで自分が人間を殺しちゃいけないか、説明できないだろ」
駆けまわっていた足を止める。
「貴様は説明、できるのか」
脹相、と虎杖の声が聞こえた。
真人は続ける。
「もちろんだよ。おまえみたいに、わざわざ人間に尋ねなくてもさ。脹相、人間に質問したんだろ?『ねぇおばあさん、どうしてワタシは人間を殺してはいけないの?』ってさ」
「…………」
ハハッ、と耳元で笑い声がした。
俺を嘲る、人間の紛い物を嘲笑う声が、すぐそこに。
「答えはカンタン。おまえが人間じゃないからさ!」
振り返りざまに血刃で応戦した。一手遅ければ目を貫かれていた場所に巨大な五寸釘のような爪を、真人は伸ばしていた。間合いを取ろうとしたが、爪は横にも棘を無数に展開する。髪を結ったヘアゴムが切れ、黒髪で視界が遮られる。
勘で腹に呪力を貯めた。「カハッ」それでも、喰らった蹴りに胃液を吐いた。
「人間は人間を殺してもいい。人間は人間を産み出せるからな。でも、おまえは違う。おまえは呪胎九相図だ。半分は人間でも、もう半分が呪霊なら、そいつはやっぱり化け物さ。怪物なんだ。おとなしくしてくれるなら触れずにおくけど、一人でも人間を殺したらもうダメだ。そこでおまえの『人生』は終わり。人間たちは思い出す。『正体を現したぞ、やっぱりこいつは化け物だ!』──人間は全員、おまえの敵になる」
馬乗りになって、自分を見下ろす真人を睨む。
「おまえの言うことは理解できる。人間の言うことは、よくわからないことだらけだ……」
虎杖がこちらに駆けつけようとするのが見えた。
真人がニタリと笑う。こいつはいつでも俺に触れて、魂を変えられる。絶対的な優位を心底たのしんでいる顔だった。
だからこそ、今でないと言えなかった。
「──だが、俺はおまえが嫌いだ」
ズア、と術式を発動させる。
呪力の集中に、まず真人が、次いで虎杖が気づいたようだった。駆けていたあいだに散らしておいた百斂たちを、解放する──真人に向けて、矢の如く。
「しゃらくせえことするねェ!」
月光に貫かれていく真人を、じっと見つめた。
真人の手はすでに俺の胸部にあてられている。心臓の真上だ。魂のかたちを呪力で纏えば数回は防ぐことのできる【無為転変】だが、俺にはまだ自分のかたちを捉えきれていない。やっと、自分自身のかたちがそのままの大きさで見えるようになったばかりなのだ。呪力で纏うための中身なんてわからなかった。
────ドクン、
心臓が、揺れた。
◆◆◆
「………………いた、どり」
真人の腕が、弾け飛んでいた。
虎杖が真人を殴っただけなのに。
虎杖悠仁の腹部にも、穴があいている。
何が起きた? 黒と青の閃光を、虎杖はさらに繰り出した。
二発目、三発目──そこで、虎杖は糸が切れたように崩れ落ちた。真人は黒い閃光を浴び続けて、爆散したように見えた。欠片がそれぞれ動物のかたちになる。そのうちの一体だけに、呪力の核を感じた。真人を追うこともできる。虎杖を捨てれば、たしかに仇討ちが適うだろう。だが。
「虎杖──ゆう……じ」
心臓が。
血という血が。
俺のなかにあるすべての熱が。
自分の上へ折り重なるように倒れた虎杖悠仁に、呼応した。
追って殺す、留まり生かす、天秤は最初から傾いている。
「悠仁」
抱き起こす。意識を失っている。顔は血の気がない。
当たり前だ。腹が削れてしまったのだ。臓腑がかろうじて身の内にあるのが不幸中の幸いか。脹相は自分の手のひらをサクリと切って、虎杖の傷口を自分の血で覆い、固めた。毒の影響は考えずともよい。『大丈夫だ』と確信できる。
止血はしたが、失血を補うことはできない。ぐったりと、まだ歳若い喉を晒して、呼吸、そうだ脈と呼吸はあるのか。動揺しながらも耳を虎杖悠仁の胸に、あてる。本当にわずかながらだが、流れと拍動を感じた。どくどくバクバクとうるさい自分の動悸を制御するより、一瞬でも真人に触れられた胸部のねじれによる痛みよりも何よりも、とにかく助けなければと思った。「伏黒……釘崎」結界内に行ったはずのふたりのもとへ、戻らなければ。
たすける──とにかく、この場を離れるのだ。
服を破って、虎杖悠仁の身体と自分とを固定し、背負う。
たすける。『弟』を。俺と血縁関係にあるこの人間を──虎杖悠仁という名の、九人目の弟を。脹相は、混乱と酷い眩暈と戦いながら、歩きだした。
◆◆◆
何が起きたか。
理屈はわからない。他人に説明する必要もない。
歩く。ひたすら歩く。助けを求めて。
「ゆうじ……悠仁、しぬな」
「…………、……ぅ……」
「しっかりしろ。ここだ、俺は、脹相はここにいる、今から高専にもどる、帰るんだ、伏黒と釘崎もいる皆が待ってる」
「……、……ぅそう……?」
「そうだ、脹相だ! 大丈夫だからな。すぐに着くからな」
「…………。……」
「悠仁。……虎杖! 虎杖悠仁、おまえは虎杖悠仁だな!?」
「ん……、……ン、うん、……」
「えらいぞ。ちゃんと答えられるおまえは本当に良い子だ」
「………………ぉれは……」
「ああ。ああ、そうだ。絶対に助かるからな」
「……、……」
「だめだ……だめだ生きてくれ。がんばれ……がんばれ!」
虎杖悠仁の意識が、今にも薄れて掻き消えていこうとしている。眠らせてやるべきか。いいや、いま眠ったら二度と目が覚めないかもしれない──あの日みたいに。
「悠仁、悠仁。がんばれ……そっちにはいくな……ここじゃないだろう。おまえが眠るべきはおまえの巣だ、おまえの部屋だ。鍋を……鍋を、また作ってくれると言ったろう?」
「…………、……ぅ……」
「そうだな。俺も手伝うからな」
会話になっているとはいえない。それでもどうにか、声を掛け続ける。返事がなくなりそうになるとあれやこれやと質問や約束の話をした。
虎杖も必死でここに留まろうとしている。
帰ろうと、懸命に繋ごうとしている。自分を、明日へと。
そうだ。あの日もそうだったじゃないか。
もうすぐだ、もう着くからな……。
──兄さん……そこ、に、いる……?
ああ、壊相。俺はここだ。お兄ちゃんが一緒だぞ。
──……ちず、は……
血塗も一緒だ。高専ももうすぐだ。大丈夫……大丈夫だぞ。
──……ぃ、さん。血塗、は、もう……
ちゃんと一緒だ。俺と手を繋いでる。おまえの隣だぞ。
──そう……。……。兄さん……。
どうした。嗚呼、血塗、すまないうるさくしてしまって。
やっと眠れたばかりなのにな。起こしてしまうな。
血塗。壊相も、俺も一緒だからな。
すぐに高専に、着くからな。
──……。もう……。……。
壊相? どうした。おまえも、眠いのか?
──……うん……すごく。すごく……気持ち、よくて……。
そうか。なら、すこし休んでいろ。
着いたら起こしてやる。だからいまは眠れ。
あんしんしろ。起きたらみんな、一緒だからな……。
パタタ、と涙が滴った。
細くなっていったあれを、俺は寝息だと信じていた。
鼓動も途切れたのは、ふたりとも賢く懸命だったからだと。
熱が消えていったのも、きっと、きっとと──。
「……がんばれ……」
背負った重み。踏みだす一歩一歩の軋み。
痛み。苦しさ。──生きて、いる。
「悠仁……悠仁。がんばれ……がんばれ」
つながりを感じる。
あの日以来、どこをどう捜しても見つからなかった熱が。
火はここに在った。
虎杖悠仁の心臓に。自分のうちがわに。
かつては壊相と血塗のなかにも、たしかにあった体温が。
「悠仁。悠仁……おまえは……──」
虎杖悠仁。俺と血の繋がりのある人間。
俺の弟。俺が守りたいもの。ずっと捜していたもの。
壊相でもなく、血塗でもないことを、認めねばならない。
重かった。死んだのだ。肩に腕に担いだあの子たちが。
ねむってしまった。ここより遠くへと向かって。
背に、生命を感じる。
絶望ではない。これは決して悲劇ではない。
もうすぐそこだ。仲間が待っている。
俺たちの棲める場所が、もうすぐそこなのだ。
「悠仁、帰るぞ、俺たちの……俺たちを、待ってくれてるやつらのもとへ、俺も、おまえも帰る……帰るんだ」
涙を流し洟を垂らし、血も汚れも引き受けて。
この道をゆく。
他にも道があったのだろうが。
この子を生かす。悔やむならそのあとだ。
後悔は、虎杖悠仁を生かしてからでも遅くはない。
「がんばれ……がんばれ……悠仁。生きてくれ…………」
遠く、手を振る何かが見える。
駆けてくる仲間がある。
「たのむ、人間……」
たすけてくれ、俺たちを──
朦朧とするなかで、それだけを伝えた。