三章 こころなるもの
二節 いのちなるもの

※続き物の6話目。
※20230228:加筆しました。


 今日の分の実験を終え、反転術式を施してくれた家入に、ラテックスの手袋を用意してほしい旨を伝えた。わかった、とだけ返された。
 五条悟から譲り受けた服へ着替えるまえに、術衣をすべて剥いでぼんやりと、自分の指を、腕を、胸を腹を見下ろした。
「……家入」
「なんだい」
 薄いカーテン越しに、気だるげな声が聞こえた。
「見苦しかったら、すまん」
「うん?」
 衣服を纏うことなく、仕切りカーテンを開ける。
 スチール椅子に腰掛けた状態で、こちらに向き直ってくれる。彼女は驚いていなかった。俺の──呪胎九相図一番の、瞳だけを静かに見据えてくる。
「どうした、脹相」
「……家入硝子。おまえは、どうして女に産まれたんだ?」
「ずいぶんなお言葉だな」
「すまん」
「いいさ」
「…………」
 つぎはぎだらけになった、俺の肉体。彼女のまえで全裸を晒すことなど初めてではないし、もっと言ってしまえば、裸どころか、この身体のうちがわ──内臓や筋繊維、骨の色まで彼女は目にしているのだ。自分でさえ触れたことのない場所を、家入硝子にあずけていた。はじめのうちは必要に迫られてのことであったし、自分もなんら気にしていなかった。だが、今はすこしばかり、違う感情も湧いてくる。
 己の手のひらを見下ろす。五指を開き、握り、また開く。
「俺のかたちを、みすぼらしいとは思わんか」
「思わんなぁ」
「大浴場に行くとかならず誰かしらが入れ替わりに出ていく」
「だろうとも」
「……俺の入浴が原因で、体調を崩した職員はいたか?」
 家入は、肩をすくめる。
「守秘義務で答えられん。と、いう回答で納得してくれ」
「そうか……」
 いるんだな、と拳を握った。家入は黙る。表情も変えない。
「家入はどうしてそのかたちなんだ?」
「こう生まれて、こう生きてきたから、としか言えんよ」
「……家入のかたちも見てみたい。が、その許可は下ろせんのだろう?」
「そうだな。おまえの参考になるならべつに見せても構わんのだが、あいにく私は一応、高専に務める高専の術師だ。私が妙な前例をつくってしまうと後につづく後輩たちに要らん苦労をかける。御上に都合よい口実を与えるのも癪だ」
 そこまで言って、ニィ、と家入が片頬を上げた。
「私の立場を推し量ってくれたのか。ありがとうな?」
「ここからでは姿見が遠い。釘崎か家入……人間の、メスの意見も聞いてみたかったしな」
「体よく私を使うんじゃない」
「すまん」
「あと、メスだなんだって呼ぶな。トンカチで殴られたくないだろ?」
「そうだな」
 ぺたりぺたりと、素足で歩く。細長い鏡。縫合痕だらけの肉体が映っている。これが俺の身体だ。
 これが俺のかたちだ。
「……血塗は、だれよりも高く跳べる脚があった」
「ああ」
「熟れた匂いがすると、壊相を思い出せる。あれが呪いの香りなら、なんて優しい香りだろうといつも……」
「そうか」
 鏡はひんやりと冷たい。俺の指。皮膚があり肉があり血が通っている。骨に届くまえに、冷気は絶える。
 以前、兄者はいいなぁ、と言われたことがある。

 ──兄者はいいなぁ、おれはこのかたち、嫌だなぁ。

 血塗が何を言っているのかわからなくて、そうか、血塗はいやなのか、と思い、俺の何が『いい』のかは終ぞわからなかった。どういうことだろうと考えている俺のとなりで壊相はすぐ、血塗に同調した。

 ──その気持ち、私もわかるよ血塗。……。どうしてだろうね、兄さんのことがうらやましくなっちゃうこと、あるよ。

 ごめんね兄さん、と付け加えられた。
 弟たちは悪くない。それだけはわかった。だから、ゆるく首を振るにとどめた。壊相は血塗の気持ちがわかる。俺には血塗の気持ちも壊相の気持ちもむずかしく思えた。弟たちは悪くない。だが、弟たちは何かを嫌がっている。それは排除したいとぼんやり思ったことを覚えている。
 ふたりは、俺の一体なにがうらやましかったのか。
「……何故、ふたりは自分のかたちを嫌ったんだろう……」

 ──壊相と血塗を悲しませたのは俺のかたちだったのか?

 返事はない。代わりに、肩にポス、と何か掛けられた。
 ざっくりと編まれた、やわらかい感触。家入が愛用してきたカーディガンだった。
「センチメンタルに浸るのもいいが、いい加減冷えるだろう。そろそろ服を着な。あと、そのカーディガンは気に入ってるからちゃんと洗ってから返せ」
「わかった」
「ああ、おしゃれ着洗いに陰干しでな」
「おしゃれぎあらい……かげぼし」
 鸚鵡返しにしながらもそもそと服を着る。だれの体温も感じなくて、何故だか安心した。家入が鍵を取り出しながら、言う。
「知らなかったら、釘崎か伏黒に訊いてみな」
「ああ。……ん。虎杖は候補に入らんのか」
「釘崎は衣装持ちだし、伏黒は姉がいた。だが、虎杖に姉妹はない。母親も早逝している。唯一の肉親は昔気質の頑固爺と聞いている。ちょっとな、洗濯に関しては期待薄だと思ってね」
「……? そういうものなのか」
「紛うことなき偏見だ。あまり参考にするなよ」
「わかった。参考にはしない」
「しろ」
「どっちだ」


◆◆◆


 手袋を、外す。
「今夜は虎杖たちと夕食を摂るんだったな」
 家入の声が、遠くで響いているような気分だった。
「鍋料理だって? 楽しんどいで」
 背中をボス、と小突かれる。
 のろのろと顔を向けた。
「図書館なり自室なりですこし頭冷やしてきな。考え事してたら美味い飯がもったいない。……だれかの手が必要なら、お散歩くらいは付き合ってやる。青い顔して部屋に向かうわけにもいかんだろ」
「……あおいかお」
 ああ、と家入が苦笑する。
「すこし、休んでいくか?」
「……いや、……いい」
「そうか」
 気を付けて帰れよ、と告げて家入は白衣に手を突っ込んで背を向ける。この距離の置き方に救われていた。気が変わった、休ませてくれと言っても何も問わず頷いてくれるはずだ。
「……家入。また明日」
「ああ。じゃあな」


◆◆◆


 夜の図書館は静かで、人気もなく、かといって誰もいないわけでもなく、さわさわと夜の気配で撫でてくる。夜。夜はいい。自分のなかの半分が眠り、半分が目覚めていくのを、まざまざと感じる。比率は時間によってまちまちだった。月の満ち欠けにすこし似ている。潮の満ち引きにも似ていた。一方が減り、一方が増える。解明された法則通りに変化は起こり、脹相を血でもって納得させる。血。血液。俺の正体。
 呪胎九相図の一番から九番までのすべてが血によって、連綿と続いている。ねじれた輪を思わせる。永遠を意味する文字でもある、裏表なくねじれた輪を。
「…………ああ」
 司書の老人が、ぐぅっと首を伸ばし、ぷるぷる震える指を立てた。心得た、と脹相も謝罪代わりにかるく手をあげた。司書の彼は盲人か、それに準ずる視力の弱さだということは知っている。ゆえに聴覚が発達した、なんて物語はおそらく用意されてはない。純粋に彼が司書であるという敏感さだ。
 反魂について調べるでなし、禁呪に関する文献を漁って警告を受けるでもなく、ただただぼんやりと本をながめて気づけばこの時間、なんていうのはさすがに初めてのことだった。ふう、と息を吐くとなんだか腕が重くなったような気がする。ながめた書籍の内容も、ろくすっぽ頭に入らなかった。今夜はあきらめて寮にもどろう。席を立ち、積み重ねていた書籍たちを、漂う骨魚のあいだを進み、もとの本棚にもどしていく。
 図書館を出ると、びゅう、と冷たい風が吹きつけた。
 ──魚たちは水泡らしきものを吐きつつ本棚の合間を行き来するが、さすがにエラ呼吸ではあるまい。気泡、でもなさそうだ。視覚的にぷかぷか吐いているだけなら、誰の目に映したい泡なのか。呪力産の魚たちは人間のためにわざわざ泡を吐いて宙を泳いでいる、としか思えなかった。
 やはり、人間が呪わなければ生まれなかったモノは、人間に寄ったかたちにならざるを得ないのか。

 屋上に行きたい、と思った。
 今は行かない方が良さそうだ、とも思った。
「……ちがうな」
 屋上が恋しいのではない。
 見知った顔と──虎杖と会えたらと、そう思ったのだ。

「…………」
 ふ、と自嘲で口元が歪んだ。そうそう自分にだけうまく運んでほしいとのたまうのはあまりに厚顔が過ぎる。寮は警備室だけ煌々と照っていた。警備担当の術師は眠たそうに脹相を見て、どうぞ、と手で促してまた何かの画面に視線を戻す。
 自室へもどろうと、階段と廊下の組み合わせをゆく。
「脹相?」
「……いたどり」
「おかえり。はは、ねむそうなカオ」
 夜気を微かに纏った虎杖からは涼しく冷たい空気がまだ残っている。屋上からの帰りのようだ。
「今日は冷えただろう」
「あー、まぁね。脹相ももっとあったかい格好したらいいのに。上着も、五条先生から借りてるんだろ?」
「ああ」
「早く洋服も買いにいけるといいね」
「ああ」
「顔見れてホッとした。今日はお昼来なかったし」
「家入との用事が長引いてな……」
「そうだったんだ」
 ふと、虎杖が足を止める。振り返る。
 虎杖は苦笑し、「聞いてもいい? ……脹相、なんかあった?」と照れくさそうに言ってきた。
「ちょっと気になっててさ。こないだの鍋パーティんときも上の空だったじゃん?」
「……肉団子と汁が美味かった」
「ありがと」
「調理を手伝えずすまない」
「まー体液が食材に混ざったらヤバいっては聞いてたから、しょうがないでしょ。取り皿とか用意してもらったし、おっけーおっけー」
「そうか」
「……まだ、すこしぼんやりしてる?」
 そうかもしれない。
 手のひらを見下ろす。指と指をこすり合わせた。
 まだ、感触が残っていないか探したい。
 なのに。
「もう、ほとんど残っていない……」
「……なにが?」
「…………」

 ──高専にたどり着き、壊相と血塗の身体の時を固定してもらってから初めて、ふたりの肌に触れた。ラテックス越しにも、兄の緊張は伝わってしまうのではないかと心配していた。おまえたちに雑菌をつけてしまうのではないかと。
 触れても撫でても、ふたりの表情は変わらなかった。
 伝わっていないのだ。俺のこの感情は。
 正面から頭を思い切り殴られたような気分だった。
 壊相、と声をかけた。返事はなかった。
 血塗、と呼んでみた。返事はなかった。
 肉の持つ時さえ停めることができれば、弟たちはかならずここに帰ってこれると思っていた。今はもう感じられない、ふたりの中身は魂だとか、生命だとか、燃料のことだと思っていた。ある意味では正しかったかもしれないが、まったく見当違いだったとも云える。
 壊相を壊相たる存在にしていたもの。
 血塗を血塗にしてくれていた大事なもの。
 今はどこまでも冷たく硬い、器だけを残して。
 ──ふたりのこころは、もうどこにも。

「虎杖」
「うん。なに?」
「今度、すこし付き合ってくれないか」
「いいけど。いつ? どこ行けばいい? 待ち合わせる?」
 即答する虎杖に、こいつはやさしい男だな、と思う。
 もし自分が明日ここから逃げ出したいから手伝ってくれと言っても、あるいは頷いてくれるかもしれない、なんてことまで思った。虎杖が目をぱしぱしと瞬きする。嗚呼、俺は今、微笑んでいるんだなと頭のどこかで自覚した。
「次の日曜の昼に、火葬場で。……屋上からも見える、白い建物だ」


◆◆◆


 七度、同じ曜日が繰り返されたら、四十九日が終わる。
 カレンダーを見る必要はない、もう頭に入っている。
 今週の末。
 七回目の土曜日が、やってくる。


◆◆◆


「──高専との縛りの条件の、最後の日って大事でしょ? そんな大事な日を、僕と過ごしちゃっていいの? 脹相お兄ちゃん」
「俺はおまえの兄ではない」
「そうねえ、僕もだれかの弟だったことはないねえ」
 カラカラと、目隠し越しに、男が笑う。
 軽薄な態度、裏打ちされた実力。
 一級呪術師・七海建人が、真人と似ていると感じた男。
 五条悟。
 ずっと、この男を信頼したくないと避け続けていた。
「縛りの条件解除まえの今、監視もないなか、任務外で俺に外出許可が出せんことはわかっている。それでも、高専の外に見に行きたいものがある」
「ふうん?」
「物理的に俺を拘束したうえでの閲覧でも構わない。だから。──どうにかして、現存する本物の【九相図絵】を見てみたい」
「そう。理由は?」
「……絵を見ながら話す。それではだめか」
「即日申請書類提出時には、記入必須項目なんだよねえ」
「…………自分と弟たちのことを知りたい」
「自己理解を深めるってところか。術式理解に繋げるとかなんとか言えばいけるかなぁ。ほかには無いの? もう一押しってとこな気がするけど」
「人間の性質と社会常識の把握に必要だ。呪術高専に属し、今後、何かしら貢献していくには体験すべきと判断した」
「その口上、アドリブ? いま思いついたの?」
「俺の持つ情報を開示しただけだが」
「ふぅーん……」
「…………五条悟」
「うん。なにかな」
 居住まいを正す。五条悟に身体を向け、両腕を脇につけて背筋を伸ばす。顎を引き、頭を下げた。

「────お願いします。貴方にしか、頼めません」

 五条が、黙る。やはりむずかしいだろうか。ギリギリまで言い出せず、決心がつくまで本当に時間が掛かった。今日しかない。明日では遅い。明後日なら自由かもしれないが、明後日では意味がない。
 緊張する。
 五条悟に断られたら、本当にあてがないのだ。力づくで言うことを聞かせたら叶うかもしれないが、代わりに弟たちが危険に晒される可能性が出る。何よりも、力づくでこの男を自分が倒せるかというと、それは無理だろうな、と思った。理由、理屈はそれこそ説明できない。おそらく、己の呪霊としての本能と、人間の戦士としての判断から、勝算を見つけ出せなかったのだろう。それに。

 敵対はしたくない。
 この男は、家入硝子の古い友人なのだ。

「情に訴えたら通る、と思ってほしくないんだけども」
「わかっている」
「わかってないよ、脹相」
 やはりだめか、と絶望しかけたところに、五条悟がしゃがみこんだ。頭を上げないでいた脹相をわざわざ下から、仰ぐようにして覗き込んでくる。
「ありがとうって言いたいの。情に訴えてでも頼ってくれてうれしいよ。顔上げて。ちょっとばかり無茶してみるから、ついてきて。夜蛾学長に一緒に頼もう。外には出せないだろうけど、代わりになる妥協案なら出せるかも」
 ね? と五条悟は目隠しを指でずらし、じかに瞳をさらして見つめてきた。青。とても澄んだその色は、たのしそうにキラキラ光を反射させている。
 これが六眼──とても綺麗な眼だった。
 なるほどこれなら、欲しがる者も多かろう。
 宿ったちからの強大さよりも、瑞々しく豊かな感情を載せて自分を映してくれる瞳が、こんなにも綺麗なのだ。
 弟にも見せてやりたかった。
「行こ、脹相。すこし急ぐよ~」
 姿勢を戻し、控えめに頷いた。長い脚で先をゆく、男のあとついていく。どうか夜蛾も頼らせてくれますように、とつよく祈りながら。


◆◆◆


 木枠に囲まれた窓から射し込む陽光は、空気中の埃やちょっとした空調の具合でその光をくず星の如くにちりばめている。夜とはまた違う、日中の校舎は建物の移動・再建築をやすませて安定している。それでも、数日前に見た廊下とは異なった風景に脹相の目には映った。
 換気のためか冷えるなかでもわずかに開いた窓から、葉擦れの音とさらさら流れる風の音が入ってくる。
 急ぐ、と言いながらも五条悟の足取りは軽そうに見えた。
「……近い」
「うん? なにか言った、脹相?」
「どうしてだろうと不思議に思っただけだ」
「ふうん……?」
「…………」
 ──こんなにも世界は近かったろうか。
 自分の足が木板を軋ませる。打たれた釘は古くなる。鬱蒼と校舎を囲む木々も、壁も天井も床も皆、呼吸している。
 呼吸することで呪う樹はあるだろうか。
 老いていく鉄は憎んでいるのか。

 ──なぁ兄者ァ。おれってやっぱり『化けモン』なのかぁ?

 血塗の言葉を思い出す。
 あのときの俺は愚かだった、浅はかだった。
 弟のおまえには、兄と同じく──俺と同じく『化けモン』でいてほしいと願うばかりで、血塗がほんとうは何を言いたかったのか、ちっとも推し量ってやれなかった。

 ──それでも私は、人間でいたいんだよ、兄さん……

 ああ、ああ。
 壊相が人間にこだわったのは、この景色を灰にしたくなかったからなのか? 壊相。綺麗なものが一等好きだったおまえは、あんなに歪に流れた時間を、自分たちを取り巻く汚れて濁った環境を、決して呪うまいとしていたな。
 世界が近くなっていくごとに、あんなに遠かった弟たちが近づいてくれたような気さえした。さみしい──けれども、それだけではない。

 愛しい。

「…………」
 やはりここにもどってくる。
 俺は、最初から最後まで、ここにいる。


◆◆◆


「……ここは……」
「ここに入ったっていうのは内緒だよ~」
 ゆうに一時間ほど休まず降り続けた階段は、折れることも曲がることもなく。まっすぐ下降していくだけの階段の途中にある扉の奥に鏡の間があった。手すりのように、峻岳にかけられた鎖場のように呪符でできた縄がずっと続いていた。この階段を降るときは決して離してはいけない縄なのだという。逆に、階段を登って地上へ戻るときは、絶対に触れてはならない呪符縄となる。
 通路自体に呪力は感じないが、あきらかに何かの術式の働きで行き来できる場所だ。まだ特級呪物であった頃の自分たち【呪胎九相図】や、高専保有の【両面宿儺の指】を真人や花御たちが奪い、逃亡した経路も高専関係者専用の鍾乳洞を使用したと聞いている。堅固に守られた場所ほど抜け穴が無数に用意され、情報は売り買いされていた。
 この経路の存在と呪符縄にこめられた術式条件の回避法の情報は、売ろうと思えばこの日本でもそれなりに豪遊しつつ一生涯暮らせる金額を手に入れられるだろう。
 夜蛾正道と五条悟は、呪術高専の機密情報を脹相に見せているのだ。ずいぶんと危ない橋を渡る、とぼやけば、橋じゃなくて階段だけどねえと笑われる。そんな五条悟ももちろん、呪符縄をしっかり掴んでいた。


「──脹相を私用で外出させることはまだ、できない。でもどうしても今日でなければだめだという。なら、一肌脱ぎましょうってことで、夜蛾学長と一緒にちょっと無茶しました。結界内に囲われているものだけを写す水鏡の間に案内します」
「わかった」
「質問は?」
「ない。行こう」
「何度も言うけど、内緒だからね?」
「わかっている。無茶をしてくれたのだろう」
「うん」
「感謝する」
「うん」


 案内してくれた【水鏡の間】の前で初めて呪符縄から手を離す。階段には背を向けて、今度は洞窟じみた場所を進んでいく。足元に気を付けて、という声がうわん、と響いていた。
「……泉?」
「に、見えるでしょ。これも呪具なんだよ。【水鏡】。ここに蓄えられた水そのものが、特級呪具かつ呪いなの」
「…………」
「見入っちゃうよね」
「あまり長居しない方が良さそうだな」
「あ、やっぱわかる? そうなの。この水、すっごい惹かれるでしょ。食虫花みたいなもんでさ。馨しくてさ。直視するだけじゃなくて、ここに満ち満ちた潤った空気もあまり吸いすぎない方がいいんだ」
「そうか」
「そんな怖い怖~い【水鏡の間】でなら、脹相の求めに応じられるかなって」
「なら、」
 希望に顔を上げると、五条悟がにっこり笑って頷いた。
「現存する九相図絵──表社会の神社仏閣には存在を知らせることもできなかった、マジでガチの最古の【九相図絵】を、見せてあげるよ」


 五条悟が、手と手を組んで印を結ぶ。
 一度つよく握り、パッと印を解除すると、水面に変化がみられた。波紋が徐々に広がり、かたちを写す。
「…………ッ!」
 息を呑んだ。図書館の文献や、申請閲覧をした一枚一枚と内容はほとんど同じだ。むしろ、水面に写るそれの方が一見して古く、かすれ、状態は酷い。ところどころ黴と苔に食われつつある。
「……これが……」
「そう。九相図──人が死に、土へと還るまでの姿だよ」

 だが、なんだろうか。
 この圧倒的な生命力と、脱力感ある失意の念は?

 絵へ伸ばしかけた手を掴み、五条悟に止められる。
「……母様……」
「違うよ、脹相」
「わかっている。わかっている──そうだ。……あのひとは、あの方はもう」
「……そう。おまえの母上様は、百年以上まえに亡くなっている」
「これは絵だ──すこし特殊なだけの……呪われているだけの、古い日本画だ」
「そうだね」
「でも、」
「うん」
「…………でも…………」
 母が死に、その遺体が朽ちていく。
 その身が膨らみ裂けて、やわらかくとけてくずれていく。色も変わり、蛆がわき、鳥についばまれてバラバラになる。母の全身が広がり、骨が覗き、炎に包まれて──灰になって、土と一体化し葬られる。それがつまびらかに描かれている。
 ──母の死と崩壊を代償に、自分たち【呪胎九相図】九人は呪われ、産まれたのだ。呪いは生きていない。生命を喰らって感情を啜って、己が死に還元させる。自分たち兄弟は、呪いである以上は害意でのみ意思表現を赦される。そう望まれたからなのか、それだけは赦されざることだったからなのかは最早、だれにもわからない。呪霊の父親はとうに祓われ正体も知れず、母は加茂憲倫に喰い尽くされてしまった。


 受肉した自分が、弟たちの骸を前にできることは無いのか。
 かたちを得た身で、何をすれば母への報いになるのか。
「…………」
 一つだけ心当たりがあると、もう、認めなければならない。


「……脹相。ひとりは、さみしいでしょう」
 泣きたくない。水面には雫一滴、落としたくなかった。
 グッと奥歯を噛みしめ、こみ上げるものを抑えこむ。
「さみしいままでいたくないのは当たり前だ。取り返しのつかないものを、死に物狂いで取り返したいと必死に腕を伸ばし考えに考えてきたことも、知ってる」
 かたく目をつむり、ふたたび瞼を持ち上げる。
 しっかりと、母の末路を──九相図絵を、見つめた。
「脹相。お節介を一個だけゆるしてくれないかな」
「……もうたくさん受け取ってしまっているが」
「反魂を追うな」
「…………」
「死者蘇生。それだけはやめてほしい。おねがいだ」
「おまえには多くの恩と借りがある、だが俺はおまえとはあまりうまく付き合っていけないと思う」
「うん。よく言われる」
「おまえからの願いを聞き入れることはできない」
「…………そう」
「だから、俺が何を選び何をしようと、おまえの願いを叶えるためではない」
「……じゃあ、」
 ふぅ、と息を吐いて泉──水鏡──に背を向けた。
 すでに悔やんでいる。自分の決断、己の選択にもう、つらさと痛みを感じていた。いつもはこうじゃない。もっと物分かりよく、一を捨て二を取れた。でも。
 でも、もう俺の『いつも』は、遠い昔になっている。
「寮にもどろう、五条悟。……こころは決まった」
「……もう、いいの?」
「ああ。……もう、いいんだ」
 一歩踏みだす。二歩目へと繋げる。そのたびに、九相図から離れていく。自分を呪いたらしめていたもの、何より大事にしなければならなかったはずの百五十年からの離別となる。
 …………今にも身が千切れてしまいそうだ。
「五条」
「なぁに」
「ありがとう」
「へあ?」
 ポカンとくちを開けて、こちらを食い入るように見る男の視線が鬱陶しい。眉根を寄せ、一度じろりと睨めあげて、すぐに前方へと戻した。
「任務からもどってきた日のことだ。殺気立ってた俺から、虎杖たちを守ってくれたろう。……たすかった。感謝する」
「どういたしまして。必要なときは脹相のことも守るつもりでいますよ、僕は」
「好きにしろ」
「うん、好きにしますね」


◆◆◆


 時計の針。
 秒針の音まで自分を刺してくるようだった。
 土曜が終わり、正確には日曜の朝。七日間を七回巡った、七時七分七秒までに、脹相が契約破棄を申し出なければ条件達成、縛りは成立する。


◆◆◆


「交通費……と、依頼料はこれでたりるだろうか」
「依頼の内容にもよるけど」
「京都校の新田新を、日曜に呼んでもらいたい」
「なるほどねえ。あの子は一年だからまだ等級も低い。この額なら、相場としては多少色付けて払ってもお釣りが来るよ」
「呼べるか?」
「うん。でもいいの? 初任給のほとんどでしょう、これ」
「必要だから得て、必要だから使うものだろう。金は」
「思い切りがいいね。たぶん今からなら朝のうちに着くよ」
「そうか。……早くに着くのだな」
「早すぎるかな?」
「いいや」
「じゃ、手配しておくよ」
「頼む」


◆◆◆


 日中、夜蛾と会ったり五条悟と【水鏡の間】から戻ったりとバタバタしていたので、家入硝子の研究協力──術式解析という名の人体実験だ、生きたままの解剖のことだった──すべてが終わる頃には、土曜から日曜に日付も変わる深夜帯に差し掛かっていた。
 家入に反転術式を施してもらう。何気ない調子で、家入が訊いてきた。
「新田新。呼んだんだって?」
「……ああ」
 回復させたばかりの肉体に痛みは無いが、疲労感からの脱力がすごかった。絞りだした声も、ガサガサに荒れている。病理解剖室はいつ何時も冷えていたが、家入は汗をかいていたし、深呼吸するだけで精一杯だ。幾度も繰り返せばすこしは慣れると思っていた。
 まだまだ自分は、生身の痛みを手放せるほど痛みつけられ慣れてはないらしい。それはたぶん、幸いなことだ。家入には感謝した方が良いことなのだろうな、とぼんやり思った。
 清潔なフェイスタオルを、投げて寄越される。
「服を着な、脹相。さむいだろう」
「……まだ冬にはなってない」
「とはいえ、夏は終わった。秋の夜は風が冷たかろうよ」
「そういうものか」
「おまえからしたら、初めての秋か」
「そうなるな……」
 手術台の上。
 すぐには下りず、手術用の防菌カバーを外して膝を抱える。頭に引っ掛けられたタオルを除けば、全裸だ。自分のかたちがこれなのだ、と冷えた足の甲からくるぶしへと手で辿ってみる。家入の意見も伺ってみたい、と思ったが、それはこのあいだやったばかりだったなと思い出して、ふ、とちいさく笑ってしまう。
 抱えていた足を崩し、床へ降り立つ。籠に重ねておいた服を着ていった。布地で空調の風から素肌を守ると、当然ながらあたたかい。ホッとする。嗚呼、自分は寒かったのだな、と改めて思った。
「……家入。頭をだいじにしろ」
「なんだ、藪から棒に」
「反転術式使いは頭部破壊に弱いらしいのでな」
「へえ。だれからだ、おまえにそんな入れ知恵したのは」
「図書館の文献で見た、ということにしろと五条悟が」
「あの野郎……」
 家入が苦虫を嚙み潰したような顔をする。五条悟や夜蛾正道に関わる話題のときの家入は──本人は否定するが──、表情が豊かだ。
「…………」
 こころ。
 それが関わることなのだろう。

 ──硝子も呪霊相手なら強いよ、無敵と言ってもいいくらいだけど、その代わり人間相手だと凄腕のお医者さんでしかない。僕がいないあいだに高専襲撃なんてことになったら、真っ先に狙われるのは【宿儺の器】でも【裏切り者の呪胎九相図】でもなく、【回復特化の非戦闘員】だ。
 硝子が後ろにいるかいないかで、戦況はガラリと変わる。
 ……ま、見かけたら気にかけてあげてよ、脹相。

「家入は、五条に心配されているのだな」
「やつのはただの要らぬお節介だ。まともに取り合うな」
「俺は必要な情報だったと思う」
「…………ほう?」
「守るためには、どこが要か知っておく必要がある」
 家入が、やや目を丸くする。
 まぁ驚くだろうな、とも思った。彼女はどうも、己を過小評価しているところがある。なかなか自分に人望があることを認めてくれない。照れ屋なのだと脹相は解釈している。
 家入が、なんともいやそうな顔をした。
「なにやら妙なことを考えているな?」
「なんら後ろ暗いことはない、話してもいいが」
「要らん要らん、聞きたくないそんなもの」
「恥ずかしがるな」
「言うようになったじゃないか」
 憎たらしい、とぼやかれる。可笑しなカオをする、と思わず笑ってしまっていた。しばらくしてから、家入も目を細めた。
「なんだ?」
「いや。よいことだな、と思っただけだ」
「なにがよかったんだ」
「恥ずかしいからあまり言いたくないんだが」
「そうか。勇気が出たら話してくれ」
「この野郎……」
「? なんだ」
「ムカつくから話してやる。私は嬉しくなったんだ。脹相がちゃんと成長していることを、実感できたからな」
「……そうか」
「そうだよ」
「そういうものか……」
 服を着終えて、台にふたたび腰掛ける。霊安室に続くドアを、見つめた。こんなにも静かな気持ちで、あの部屋をながめる日が来るとは思ってもみなかった。
「…………壊相と血塗は」
「ああ、なんだい」
「………………、……いや。……」
「うん」
「家入……すこし、ここで話していてもいいか?」
「ああ、もちろんだ」
「……すまない」
「かまわんさ」
「…………」


 目的なく話をするという体験は、これが初めてだった。
 無為に時間をつぶそうとしていたわけではない。惰性ではない。そんなことをしている暇は、俺にはなかった。なにせ数時間後には縛りが発動し、呪術高専に永続たる隷従を誓うことになるのだ。そのまえでなければできないことはいくらでもあった。今のうちでなければ、できないことが。
 それがわかっていながら今は家入と話をしていたかった。
 朝までの時間を、ひとりで過ごすことができない。俺はすぐに迷うようになった。泣くようになった、だれのまえでも気が緩むようになった──俺は、弱くなった。
 なのに、家入も五条も皆、笑ってくれるようになった。
「…………」
 ──自室のベッドに、初めて横になったとき。
 眠って起きて、愕然とした。深い眠りに落ちて、朝にすっきりと目覚めた自分に失望したのだ。絶対に夢を見る、こんなことをしたら絶対後悔するだろうと思っていた。思い込んでいた──信じていた、と言い直してもよい。
 きっと酷い悪夢に魘されて、飛び起きるに違いない。そうであってほしいとすら思っていた。屈折した願い方だ。あたらしい場所で堂々と眠ること、それはそこを自分の居場所と定めることに等しい。自分は弟たちがいなくても眠れるのだと知ってしまうのがこわかった。
 目が覚めて、隣室からは人の生活する気配がし、閉め切ったはずのカーテンの隙間からもれる陽の光が綺麗で。それからようやっと、カーテンレールに掛けたままの、泥と血で汚れたあの日の装束が目に入った。
 胸が詰まるような想いに駆られた。
 思い出がつらく、悲しかったからではない。
 認めざるを得なかったからだ。
 弟たちの残り香が消えたのは、時間のせいでも環境のせいでもなく、自分の──俺の、痛みが多少なりと癒えつつあるからだからと。そして、この傷が癒えていくことは止められないのだと──いっそ自分を今ここで縊り殺してしまいたいほどに、救われてしまっていた。
 弟たちが死んだのに、自分は生きていけるのだ。


「壊相と血塗は……」
「ああ」
「……しんだ、のだな……」
 先ほど言い出せなかったことを、くちにした。
「そうだな。死んでいるな」
 家入が、普段とおなじ調子で答えた。
 たまらず、うつむいた。どうしようもなく苦しい。
「いつだ……いつ、あの子たちは、死んだんだ」
「……壊相と血塗の記録を見せようか? 今のおまえになら、見せてやらんでもない」
「…………頼む」
「すこし待ってな。いくらか量がある」
 苦笑する。やはり、条件がそろえば縛りを結ぶという仮の縛りを持った脹相のあずかり知らぬ時間に、壊相と血塗の検査もおこなわれていた。
 検査、という名目ですらなかったかもしれない。現時点で自分が縛りを設けたのは家入硝子個人とのものだ。家入硝子の関わらないときに、家入硝子ではない術師が壊相と血塗に触れていたとして、俺と家入のあいだの縛りは破られない。
 壊相の肉体、血塗の傷痕──それらに変化がすこしでもあれば、気づく自信があった。けれども、害意も敵意もなく、ただただ観察という検査方法のみであれば、何の気配も残らない。むしろ、家入が一寸でも脹相に罪悪感を抱くような手段は使えないときている。いくら新田新の術式があるとはいえ、固定できるのは状態だけだ。自分はあの子たちを守ったつもりでも、甲斐甲斐しく世話をしたとは言えない。今日の今日まで、触れることはおろか、埃一つ払ってやれなかったのだ。
「資料はこれがすべてではない。呪術高専に絶対服従で縛るまえに見せられる資料は限られているのでな。全記録を見たいなら、明後日以降に申請を出せ」
「わかった」
「意外だな。もっとキレるかと思っていたが」
「……俺にも不思議だ」
 壊相と血塗の、身長や体重。そのほかにも、状態を固定するまえに採取できた血液や皮膚、毛髪の成分データ。どうやら、呪術高専管轄下の研究所で扱っていたものの報告書の束が中心になっているようだ。
「……呪術高専に、辿り着いたときにはすでに、ふたりは息絶えていた……と、家入は言っていたな」
「ああ」
「俺は納得できなかった」
「そうだったな」
「……触れても、壊相が返事をしてくれない。血塗はもう、笑ってくれない……。思い出したんだ。あの子たちは、もっとずっと前から痛そうだったし、苦しそうだった。……俺が見逃した傷で。……俺が広げた痛みだ」
「……呪霊たちのもとに居たときからの……?」
 頷く。
「人間側につけば、呪術高専に辿り着けば──元通りになれると、そう……」
 ヒトは時に、傷ついたこと自体を認めたがらないと云う。傷が深すぎて、正視に耐えないのだ。直視してしまったことでさらなる痛みで苦しみ悶えるヒトと、痛みそのものを無かったことにしようとするヒトとに別れることが多い。
 よくわからない理屈だ、と思っていたが、こと、弟たちに当てはめて考えると想像できてしまうことに愕然とした。血塗は痛みを抱えきれず膝を折り、壊相は目を逸らそうとした。
 俺だけだ。わかっていなかったのは。俺だけだった。兄弟なのに、おなじ痛みを分かち合うことができなかったのは。
「血塗を傷つけた。俺はかたちを選べなかった」
「誰だってそうだ」
「壊相を傷つけた。犬のように扱われても、恥じることさえしない兄の無様と無知に悩ませた」
「傷つくつかないは、相手の自由だ。いや、相手にも選べないことでさえある。はっきりしているのは、誰にもどうにもできないことで、おまえは誰かが傷つく自由を奪えないということだ」
「わかっている……」
 資料を、そっと手術台に置いた。
 やりきれないと、そう思う。何もかもがやり直せない。そうだ。やり直せなかった。壊相と血塗の肉体。死体が並んでいた。死体。生命がないのに停められた不自然な肉。俺はもう、あの子たちの中身を──こころを、感じることができずに物を見下ろすような眼で、弟たちを、大好きな、壊相、かわいい、やさしくしたい、血塗、あの子たちを、俺は。

 俺は──俺は、お兄ちゃんなのに。

 二度目の絶望だった。
 壊相と血塗が死んだのだ。
 俺とともに居たのに。俺のすぐそばで。
 俺は生きていけるらしい。弟たちが死んだのに。
 弟たちが死んだのに──自分は救われることができるのだ。


「さみしい」
「そうか」
「家入」
「なんだい」
「……高専との縛りだが」
「辞めておくか?」
 あっさりと確認するんだな、とすこし笑ってしまった。
 そうだな、とも思う。きっと、やっぱりいやだと辞めてしまってもいいことなのだろうな、と思いながら、やはり自分は首を横に振った。
「辞めない。受ける。できることなら、霊安室ではない場所で縛ってくれないか。……せっかく眠りについたばかりの弟たちを、起こしてしまわぬように、ここで」


◆◆◆


 七時七分八秒を過ぎた。
 七回の巡りを経て四十九日は終わり、ただひとり立つ。
 九秒、十秒、十一秒……時を進め刻んでいく秒針に。
 俺の心臓も、律儀についていくのを感じた。


◆◆◆


「俺もいつか、『1/9』と書かれて保管されるのか」
「それはない。私の代では、私がさせない」
「……そうか……」
「めずらしいな。理由は聞かないのか?」
 ああ、と頷いた。
「その瞬間が来れば、理由はおのずと知れるからな」
 だから今は、いい。
 そう言うと、家入は「そうか」とだけ答えた。


◆◆◆


 脹相との待ち合わせに遅れそうで、虎杖悠仁は走った。
 火葬場に着くと、玄関ホールでだれかが話し込んでいた。


◆◆◆


「……ホンマに、ひとり残していいんですか」
「ああ。待ち合わせをしている。心配するな、新田新」
「や、心配はしとらんけども……」
「脹相! あ、コンチワ」
「わ、ドーモ」
 金髪で不思議なカットのおかっぱ頭の彼は、微妙にイントネーションが西の響きを帯びていた。困惑して脹相を見る。
「ええと……? 脹相、このひとは……?」
「新田新だ。いいやつだ」
「あの、イタドリさんですよね。俺、新田いいます。いつも姉が世話になってます」
「あ、新田って──補助監督のオモシロ姉ちゃん?」
 言われてみれば、新田明さん──語尾に「ッス!」とつける明るい補助監督さんと、似た面影がある。
「ですです。先日は京都校の先輩らが面倒かけたみたいで」
「いえいえいえ。もうお帰りで?」
「はあ、まぁ」
 なんだろうこの会話、と思いながらも一応会話をつづける。なんとなく別れる空気になったのでちいさく手をあげたが、隣に立った脹相はぼんやりしている。脇をかるく小突いた。
「オイ、脹相もあいさつ。見たとこ知り合いさんなんだろ」
「──本当に見送りは要らんのか、新田新」
「ええ。歌姫センセも待ってますンで」
 つか、フルネーム呼びどうにかなりませんかね、とぼやく彼に向けて、脹相は悠仁がしたように手をあげ、言った。
「……世話になった。達者でな」
「え? あ、ハイ」
 目を白黒させて、新田の弟は校舎へと戻っていく。歌姫先生、というのは確か京都校の先生だったはずだ。週末を利用して東京遠征でもしたのかもしれない。それより今は、脹相がなんかすごいことをした衝撃が、すごく、すごい。
「ナニ、まじであいさつしたじゃん」
「なぜ驚く」
「なんかもっと愛想無かったよな? とかおもって……」
「愛想を振りまいたおぼえはないが」
「ふうん……まぁいいけど」
「…………虎杖」
 脹相に突然、頭をぐしぐしぐし、と掻きまわされた。
「なに? なに!?」
「拗ねるな」
「ねえよォ!? ねえですねえです、拗ねてはねえです!」
「そうか。えらいな」
「なんなのおまえッ!?」
 わけがわからず涙目で叫ぶと、表情を幾分やわらかくして脹相がおれを見ていた。え、なに。まじで、今日はなに?
「なんか……機嫌、いい?」
 いいことあったの、と問うと、そうだな、と答えられた。
 きっといいことなのだろう、これは。
 そう、つぶやいて。
「虎杖。これから俺は人間をふたり、殺そうと思う」
「────えっ?」
「いやだったら出ていってくれてもいい。だが、できることなら、俺が逃げ出さないように見届けてくれると有難い」
 絶句してしまう。
 脹相は正面からおれを見つめて告げた。
「壊相と血塗の葬式に、付き合ってほしい」


◆◆◆


 壊相と血塗の遺体は、それぞれ棺に入れられていた。呪術高専では様々な遺体を扱う。事と次第によっては、呪物と化したナニカの祓除と鎮魂からの慰霊もおこなう。そのため、どんな形状のものでも納棺できる特注の棺が高専には常備されている。
 壊相は巨躯よりも背中の人面が問題だった。ヒノキなど、通常の材質では人面から洩れる体液で分解され、腐敗だけでなく新たな呪いをも呼び寄せる可能性が高かった。
 血塗も血塗で、そんな壊相とつながった術式持ちの肉体だ。なんとか特徴的な骨格、厚みある身体を納棺できても、壊相の肉体破壊への共鳴で血塗自身が災いある呪物に変化することだって、無いとは言い切れない。
「でも、高専の棺なら『合う』ものが見つかる。……ふたりとも、素肌にあの凍った箱では寝心地も悪かったろう……。……。早く、気づいてやらねばならなかったな」
「ちゃんと気づいてやれたじゃん。今はあったかそうだよ」
「……。……ああ」
 彼らふたりの遺体は、先ほどの新田少年の術式で状態固定を施し、冷凍保存までしていたらしい。脹相が弟たちに並々ならぬ関心を──愛情と呼ぶべきなのか、愛情だけだと定義してもよいものか、おれにはわからないものを──注いでいることは知っていた。家入のもとで何かをしていることも。
 それでも、まさかここまでしていたなんて。
「……壊相が汗を。血塗が涙をながしている」
「冷えてたところからここに来て、温まって水滴がついたんだよ。結露みたいな……食堂のコップ。時々テーブルが濡れてたろ」
「ぬぐってやりたい」
「……おれの、汚れてるけど……使う? ハンカチ」
 午前中に実技あったから、洗い立てってわけじゃないんだけど。そう付け加えてポケットから出した。脹相は一度こちらを見て、ふたたび弟たちを見て、やっぱりもう一度悠仁を見た。
「借りていいか」
「もちろん」
「洗って返す。『おしゃれぎあらい』と『かげぼし』だ」
「ふつうの洗濯でいいよ、あンがと」
 ぬぐってみるときに、脹相の手は力加減がうまくいかなかったようだ。壊相の眼窩に指が入りかけ、脹相が手を止める。血塗の皮膚は、触れるまえにずるりと流れた。
 腐敗。分解。彼らの術式が外へ流出せぬように、棺の内部で巡らせたことで、彼ら自身を破壊しつつある。「脹相、」と声を掛けると、もともと白かった顔をますます白くさせて、「ああ」とだけ答えてグッとハンカチごと拳を握る。ああ、ああ、わかっている。
「崩れきるまえに。このかたちを留めるうちに、せめて──火葬を、進めねば……」


 ゴウンゴウン、カタン。
 棺は封をされ、運ばれていく。
 葬儀場ではなく、ここはあくまで火葬場だ。弔うための場ではなく、形あるものを灰と骨に還す場所。火葬場の職員は全員、名のある術師だった。

 ──受肉しているので、おふたりの火葬は可能です。
 ですが、呪いとしての半分は祓う必要があります。でないと、べつの呪いに転じますので……はい。呪力を籠めた術式的火焔も後半は使わねばなりません。
 ……はい、そうです。はい。
 残りません。灰も骨も、呪いのひとつも。

 頭を下げる喪服姿の男たちに、脹相も礼をする。
「だいじな弟たちです。最期まで、どうか」
 はい。これが、我々の仕事ですから。
 男たちはしずかに答えた。


「ふたりを灼く、炎を見せてはもらえんだろうか」
 できません。
「なぜ」
 術式を用いた火焔です。
 呪力を帯びた熱気となります。
 あなたの眼球がもちません。
「視力を失うということか?」
 視力だけで済めばよいのですが。ご理解いただけますか。
「…………」
「脹相。……壊相と血塗の、その。位牌とかそういうの……持って帰んなきゃだろ?」
「……そう、だな。すまない。往生際悪くごねた」
 いえ。ご要望に応じられず申し訳ありません。
「…………」
 ご遺族の方、ご友人様はこちらでお休みください。


◆◆◆


「ご遺族の方、か」
「ふくざつ?」
「いや。……どうだろうな。うれしい……ような、俺ではなく壊相と血塗にかけてやってほしい言葉だな……と思ったというか。……複雑な気持ち、かもしれん。俺も人間扱いされることに、慣れていかないとな」
 座敷のある部屋に通され、脹相とともに腰を下ろす。部屋の端には背広姿の先客がいた。なにかの書類を黙々とチェックしていたが、すぐに出て行ってしまった。
 一般社会の【窓】か、補助監督か、もしかすると雇われの呪術師のひとりだったかもしれない。穴場の休憩室として利用することもできそうな場所だもんな、なんてことを思う。
「けっこう時間かかるってね。二時間だっけか」
「ああ。眠っていてもいいぞ、虎杖。俺が見ておいてやる」
「ダイジョーブ、ありがと。てか、おまえの方が眠たそうだけど。昨日、ちょっとは寝た?」
「何度か目はつむった」
「それ寝たとは言えねえなぁ~」
 座布団が欲しくて探しに立つ。座布団が積まれた部屋の隅、いくつかのボードゲームが置いてある。
 将棋に囲碁、トランプは見知ったものだったが、なかなかに年代物のテーブルゲームやボードゲームの品数には笑ってしまう。脹相のもとへ、いくつか持っていってみた。
「なんだ?」
「寝るのもいいけど、眠れないならなんか触っていようよ。あ。これとかどう? 脹相、人生ゲームってやったことある?」
「ない」
「じゃ、やってみよっか。ほんとは大勢でわいわいやった方がおもしろいんだけどさ。ルールおぼえていい感じだったら釘崎とか伏黒なんかも呼んだっていいし」
「ああ」
 箱の裏に書いてあるルールを読み上げる。
 脹相は腕を組んで妙に真剣な顔で聞いてくれた。じゃんけんで順番を決め、ピンク色のルーレットを回す。まずは悠仁からで、次に脹相の番だ。
「あ、おれ中学校が男子校になった。私立なんかな?」
「……飼っているペットが大金を掘り当てた。……?」
「ここ掘れワンワンじゃん! 初っ端から引きがいいねえ」
「本当にこれはふつうの家庭のふつうの人生なのか?」
「よくあるというかそうそうないというか。ゲームなので」
「わからんが……む。また何か拾うマス目だ。大きな桃が川の上流から流れてきた。……? 樹になるものじゃないのか、桃は?」
「めっちゃ桃太郎じゃん! なんだこいつのこの人生?」
「俺に訊くな」
「まじで高専、妙なモンばっか所持してっからに……」  ルーレットを回す。車を得て、そこに自分の駒を乗せた。
 やっぱりふたりでやるとすぐに進んでしまうゲームだな、と当たり前すぎることを思った。
「なあ」
「ああ」
「脹相は、人間になりたくないんじゃなかったの?」
 畳の網目をいじりながら、訊いてみる。脹相が「……」と見つめてきた。「えぇっと……」答えたくなけりゃ、いいんだけど、と付け加えた。
 以前から、それとなく聞いてみたいことだった。でももうすこし、自然な尋ね方をするつもりでいたのだ。まだまだ自分には尋問や情報収集の役目はむりだな、と悠仁はしみじみ痛感する。
「なりたくない……と、思っていた。が、改めて思い返すと……認めたくなかった、と言い直した方がよいかもしれん。いやだった。わけがわかないことばかり言い出す生き物だ。呪いを産みだす気色悪い存在だと感じていた。……の、だと思う。……たぶん」
「うん」
「うまく言えん。ずっと考えてきたがちっとも言葉にならん」
「十分言葉になってると思うよ、大丈夫」
 そうか、と短く答えてくれて。
 白くも太く、分厚い指が、ルーレットを回す。
「たとえるなら、そうだな……虎杖。おまえは人を殺したいと思ったことはあるか?」
「──……えっと、それは」
「ないか? あるか?」
「…………ない、よ」
 吉野順平のこと。彼の母親の死を防げなかったこと。改造されて無理矢理に戦わされていた、人間たちをこの手にかけたこと──そうだ、おれは一度だって能動的に殺したいと、思ったことはない。

 ──おまえは強いから、人を助けろ。
 大勢に囲まれて死ね。
 俺みたいには、なるなよ……

 祖父の言葉を思い出す。結局じいちゃんの言葉を理由にして自分は生きていくのか、それとも祖父の最期の願いを叶えられずにどこかで独り、野垂れ死ぬのか。今は何もわからないが、ひとつだけ。自分のなかに巣食う悪。両面宿儺。あいつを道連れにすることだけは、決めていた。
「明確な殺意──俺はある。今でも抱いている」
「……そうなん?」
 ああ、と脹相が頷く。
「俺は真人を殺してしまいたい」
「──脹相? 真人は呪霊だよ……」
「わかっている。だが、あいつは人間だ」
「真人は人間じゃない!」
 これに、脹相はふるふると首を振った。
 どこまでも真剣な目で、ルーレットを見つめている。
「俺はそうは思わない。人間が、真人という呪霊を成した。やつは人間で出来ている。純粋なまでに、【人間】の呪霊として成り立っている。ヒトの醜さ。邪悪さ。無邪気さすべてをやつは持っていた」
「…………でも、あいつは人間なんかじゃないよ」
「……。この話になると平行線だな。それもいい……虎杖、駒を。娘が結婚して家を出た」
「ん。……」
 ちらりと脹相が目線だけでこちらを見て、すぐに、手元へ目を戻した。
「駒を壊すなよ、虎杖」
「力加減くらいはできるよ」
「おまえは強い。だからもっと、加減してくれ」
「……駒のはなしだよな?」
「ああ。駒のはなしだ」
「…………駒のはなしじゃ……ない、よな」
 ルーレットを回す。
 脹相の家庭が順調に栄えていくのに対して、自分はというと借金を抱え事故に遭い会社はつぶれ、一家離散だ。あとはただただ、積もり積もった借金を返済しながら人生の終わり、ゴールへと向かうだけの青い駒。
 駒を割り砕いたところで、おれの負けは確定している。
「……弟たちさえ生きて笑ってくれているなら、何を壊してもいいと思っていたんだ」
「うん」
「母と弟以外に、こころを割く余裕なんてなかった」
「うん」
「壊相と血塗とともに受肉して、ともに過ごして。あの数日に、俺はこれからも生かされていくのだと思う」
「うん」
「弟たちと過ごした数日のために死ぬのもいいと思っていた」
「…………」
 脹相が、顔をあげる。
 壁のその先を見ようとするように、目を奥へ奥へと向けた。 「壊相と血塗を殺す炎をこの目に灼きつけて、そのまま目をつぶしてしまうか一瞬本気で考えた。……驚いた。すぐに、そんなことはできないと思ってしまって、驚いた……本当に。……壊相と血塗は、今まさに消えゆこうとしているのに」
「……うん」
「灰も骨も何も残らない、と聞いて。……悲しむよりも前に忌庫の……膿爛相たちのことも、きっと手段を講じれば呪いを昇華させたうえで弔ってやれると思った……弟たちの殺し方がわかって、あろうことかホッとした。最低だ。……殺してやりたい……こいつは、【脹相】はあの子たちの兄でいる資格がない。でも、まだ真人がいる。やつを殺す……殺すまでは死ねない。なんなんだ。なんで俺はまだ生きている……? 殺すためだ。真人を、俺を、弟たちを。…………殺すために、俺は生き」
「それはちがう」
「……いたどり……」
「ごめん、大事な話を遮って。でもそれは違う、違うとおもうよ脹相。……正直、おまえたちの事情はよくわからない。話してほしいって言うのもむずかしいよなってわかってるつもり。だからほら、その……脹相のことしか、おれは知らんけど。だからこそっていうか。……だれかを殺すためだけにとか、復讐するために生きられるやつじゃないよ、脹相は。……おれには、そう見えるよ……?」
 悠仁を見つめる脹相の瞳はしずかなものだった。
 なにか眩しいもの、得難いものを前にしたときのような、すこしだけ痛みを孕む視線だった。急に脹相が遠くへ行ってしまった気分になって、駒を持っていた彼の手首を掴む。
 細くはない。
 太く、頼もしく感じられる男の腕だ。
 悠仁よりも、すこし体温が低いのだろうか。
「虎杖」
「あ、ごめん」
 離そうとしたら、逆に掴み返された。
 脹相の手のひらが、わずかに湿っていてハッとする。
「わかるか? ……緊張している。今まさに、壊相と血塗のかたちが崩れ燃えているのかと思うと、なにもかもかなぐり捨てて叫びだしてしまいそうなんだ」
「……後悔、してるの?」
 静けさを保っていた脹相の貌が、苦痛にぐにゃりと歪んだ。
「している。今すぐに取りやめたい。あんな箱から連れ戻してやりたい、でも! ……でも……それは、……『ちがう』のだろう……?」
 かけてやれる言葉がない。脹相の瞳。涙の膜を張り、唇はわなわなと震えていた。生命と呪詛が彼の瞳孔に集積され、くるりぐるりと混ざり巡っている。涙で潤んだ幼子の瞳であると同時に、永い永い百五十年を蔵の奥底でじっと沈黙しつづけてきた老人の混迷にも思えた。
「俺が、壊相と血塗をころしたんだ」
「ちがうよ脹相、それは、」
「あの子たちの中身を取り戻せないと、もう二度と会えないのだとあきらめたのは俺だ……!」
「それは……」
「……俺は、……俺が、……なあ。どうしたらよかった……? 次に活かすことなんてもう、できない。……壊相と血塗を、ほ、ほうむ、……葬って、死なせ、た、のは。俺だ。俺だ、あの子たちのお兄ちゃんなのに、俺は……」
 脹相の指に籠められていた、痛むほどのちからが弱まり、緩められて畳へ落ちた。初めて会った日と似ていたが、まったくべつの泣き方だった。あのときは何が起きたかわからず拒んで泣いていた脹相が、今はひとつひとつをわかったうえで、受け止めきれずに泣いている。
 重い涙だ。
 重くて重くて脹相から生気というものをこれでもかと削って、次から次へと、こぼれていく。ゲームシートに滴った涙がちいさく池をつくっている。
 ゴゴン、と音がする。響いてくる、この部屋まで。
 壊相と血塗を燃やす、浄化の炎。
「…………やっと」
 かろうじて、声を絞り出せた。
「やっと、壊相と血塗のことを人間なんだってストンと思えたから……だから、正しく死なせてあげたくなったんだろ?」
「……ぅ、ぐ」
「呪いは、発生して祓われて消えてはまた発生するけどさ。ヒトはそうはいかないから。死んだら腐るし、弔うためには火や土が必要で……そうしてやっと、眠りにつけるから……」
「~~~……ッ!」
「弟殺しだなんて、言うなよ。人殺しじゃないよ、脹相は。……おまえ、いい兄ちゃんじゃん。壊相たちのことはわからんけどさ。……兄弟ってすげえなぁっておもったよ……」
 ぶんぶんぶん、と脹相が頭を振る。涙が散った。
「ちが、ちがうなにもっ……、なにも……!!」
「うん」
「──なにも、出来なかっ……、!!」
 畳に拳をつけて、脹相がしゃくりを上げる。額をすりつけ嗚咽をもらして泣く姿に、何故か安堵している自分がいた。

 ──人間味ある男だと、思えるのはこれで二度目だった。
 初めて高専に彼ら兄弟がたどり着いたあの日と、今日。
 たったこの二回だけだった。
 脹相は涙を隠さない。
 汚れても歪んでも、隠せない男だ。
 うんと泣いてほしかった。悲しんでくれて嬉しかった。
 脹相のこころが少しずつ、輪郭を確かなものにするようで。

 嗚咽と嗚咽の合間に、いたどり、と漸う呼ばれる。
「うん。なに?」
「これが、大事なひと、を、殺され、た、者の……気持ちか?」
 どう答えるべきなのだろう。脹相は、鼻といい涙といい、顔中をぐしゃぐしゃにさせて何かを探しながら言った。
「あい、愛する家族、を、亡くした人間の……」
 これには、すぐに「うん」と答えることができた。
「これが……これ、これが」
「うん。そうだよ。……それが、『さよなら』だ」
「う、ぅゔ……っ!!」
 脹相が頭を搔きむしる。二つに結った、あの髪型までもがぐしゃぐしゃになる。あまり爪を立てては傷ついてしまう、と悠仁は脹相の手を取った。ひ、う、と泣き声をあげては肩を揺らしていた。
 脹相の顔が露わになる。嘆き悲しみ悔やんでつらそうなその表情は、どこまでも痛々しい。なのにやっぱり、悠仁は胸のどこかでホッとしてしまう。
 何度かくちを、あぐあぐと開閉させて、脹相が訴えた。
「……ろ、さない……」
「うん」
「もう、だれもころしたくない……っ!」

 ────バササ、と室内にも響く羽音がした。
 知らず、悠仁も脹相も窓のそとへ意識を持っていかれた。
 晴れている。さっぱりとどこまでも乾いていて。
 外はきっと気持ちがいい。
 秋晴れというやつだった。

「……えそうとけちずにも、見せたい」
「見てるよ、きっと。かたちが無くなったから、どこにだって行ける。いつだっておまえのこと、元気にしてるか見守ってくれるよ」
「………………膿爛相や焼相たちも、いつか……?」
「忌庫にいるって言ってた、六人の弟さんたちのこと?」
 脹相が、こくりと頷いた。
「やくそく。守ったから、あの子たちは自由に、なれる」
「そうなんだ? よかったね」
「ああ……よかった……」
 弱々しくはあるが、脹相がぼんやりと微笑んでつぶやく。
「ふしぎだ」
「うん?」
「こんなにも世界が近い。……いっぱい、広い。たくさんある、なんでもある、なんでもできるんだ。……これだけ広ければ、いろんなことが起こるのだろうな……」
「うん……」
「……かんたんに呪えるような、狭い世界ではないな……」
「そうだね」
 ずび、と鼻を鳴らしている。
 子どものように、気持ちよく泣くなあと感心する。
 備え付けの箱ティッシュで拭ってやった。
 もうすぐ、火も尽きる。
 脹相が果たした約束と、『これから』が始まるのだ。


◆◆◆


 風が吹く。
 時は流れている。
 生命にも死にも、平等に。


◆◆◆


「ねえ夏油、株券」
「貴様、なぜに儂に回さんのだ? よもやわざとかァ!?」
「人生ゲームがイカサマできるタイプのゲームに見えるの、漏瑚?」
「ぬぅ……」
《けれど、わざとなのでしょう?》
「まぁね~」
「真人貴様ァ!」
「ハハ、ふたりともそのくらいにしておくれよ。はい、株券」
「ふっふふーん。もうちょっとオレ、勝ち組コース入りますねえ」
「イカサマ野郎めが」
「ねえ、さっき話してたお遣いなんだけどさ。勝負に勝ったやつがだれがいつ行くか、ご指名できるってのにしない?」
「なんじゃ、命令系は儂ゃ好かんぞ」
「なら漏瑚がイチ抜けしたらいいじゃん。指名権あれば自分は行かなくて済むんだしィ~」
「……めずらしいね。そんなに行きたいのかい、真人」
「あっ、バレたァ? そろそろ身体動かしたくってさ~」
《なら私も頑張りましょう。競争ですね、真人》
「あっは、ホント花御、殺る気あふれてるねえ」
「なら、私はドベパスで。まだね、表に出たくないんだ」
「夏油の引きこもり~そろそろカビ生えても知らないよ?」
《そうですよ、黴がかわいそうですよ》
「言うじゃないか、ふたりとも。……まぁいい。こういうのもたまにはたのしそうだ。この人生ゲームに勝ち抜いた誰かが、今度のお遊び……もとい、お遣いに行くってことで」
「やったね!」
《勝ちますよ》
「わ、儂じゃって勝つぞい」
「あっは、漏瑚負けず嫌い~」
「ッさいわ!」
「ふふ。じゃあ、みんな。よろしく頼んだよ。八十八橋から特級呪物【両面宿儺の指】の回収──無事に帰ってくるまでがお遣いだから。ね?」